崇徳弓道場物語

昭和31年(1956)

戦後、10年が経過。

崇徳高校のグランドの南側で練習。遠くには二葉山?が見える。

当時は青空弓道場。足下には足踏み幅の板を敷く。

昭和30年4月に弓道部好会が発足。昭和31年4月に弓道部が発足。

初代顧問は故本田茂一先生。(詳細は『草創の精神』に掲載)

この年の(31年)8月に第1回全国大会(於東京)出場。

団体の部ベスト8、個人の部で2位入賞。





先ずは、グランドの隅に囲いをつくり、安土を盛る












昭和32年(1957)

安土が雨で流れないように、その上に屋根を取り付ける。

的場のほとんどは、本田先生と部員の手作り。

霞的も星的も黒色部分はコンパスで線を引いて、墨を塗っていたと聞く。










昭和33年(1958)


遠的の練習ではない。近的の練習風景。











昭和34年(1959)


新校舎の建設に伴い、弓道場の場所が新校舎の南側に移る。

写真の右側の建物が新築の1号館の校舎。(現在は取り壊され、体育館となる)

左側は、崇徳高校の南側を走る道路との境の「垣根」。

胴着、袴に足袋で練習。

足下には道場の基礎が出来上がり、床板が敷かれる。









昭和35年(1960)


弓道場に鉄骨の柱が建ち、ついに屋根が完成。
















昭和36年(1961)

的場に、校章の入った安土幕がかかる。

6月の県大会で優勝する。














昭和38年(1963)

少しずつ手を加えていき、旧弓道場の原形が完成しつつある。

右側には西日をやわらげるための簾が掛けてある。

体配の指導が厳しく行われていたことが、写真から伺われる。















昭和39年(1964)


弓道場に庇がつけられ、雨が道場内に降り込んでくるのを防ぐ。

毎年、少しずつ手を加えて、旧弓道場が出来上がっていく。

本田先生は毎年、そのことを意識して、

出来上がっていく様子を写真に残されたように思われる。














昭和42年(1967)


後列左から三人目が広島県弓道連盟会長の宮脇保博先生(崇弓会12期生)。

前列左から二人目が第二代顧問の 故 赤木宏至先生。















昭和44年(1969)









壁が取りつけられるには、あと2年から3年の歳月を必要とした。














昭和47年(1972)


赤木先生の時代に、壁が増設され、

念願の 『旧弓道場が完成』 する!!

昭和30年の弓道部発足から、実に17年の歳月を費やしたことになる。

旧弓道場の完成までに至ったその経緯に思いを寄せると、

弓道場の建設に情熱を傾けてこられた

初代及びそれを受け継がれた二代の顧問の先生に、

感謝の念がこみ上げてくる。



右側には腰掛け椅子。その上には窓が、

更に、奥には一畳程度の倉庫が設けられてい
た。

















昭和56年(1981)

左端が第4代顧問の 故 薬師寺秀昭先生。

矢道は、まだらではあったが緑色の色彩が見られるようになる。












昭和60年(1985)


的場が道場に対して西側にあった。そのため、

放課後の練習は、西日が強く差し込むので、青色の布を掛けて日よけにした。














平成元年(1989)


平成の時代に入ると老朽化が進み、壁のベニヤ板の表面は、はげ落ちる。

雨天時は、天井から落ちてくる雨漏りに悩まされた。

床も、一部が抜け落ちていた。











平成3(1991)年 9月27日、台風19号が上陸






















平成4年(1992)



台風19号で大きな被害を受けた弓道場の補修を行う。

壁はベニヤ板を張り替える。雨漏りがひどかったので屋根も補修する。

少しでも道場を広くしたいと考え、この際、倉庫と腰掛け椅子を取り除く。
















平成10年(1998)

旧弓道場が取り壊される直前の写真。

昭和30年(1955)から少しずつ、手を加えて建てられ、

完成後は補修をくり返してきた旧弓道場が、

ついに、その幕を閉じようとしている。




弓道場の正面。右端が入り口の扉。










扉の上の「弓道場」の看板は、書道の児玉先生に書いて頂く。

この看板は現在の新道場の入り口の左側に掛けてある。

新道場の「至誠」も児玉先生の筆。













右下に写っている矢箱は、崇弓会36期生の作。

現在も使用している。












雨天時でも巻藁練習が出来るようにと、道場内に一台設置する。



























的場を照らす照明(水銀灯)は、立派なものをつけてもらっていた。























新しい校舎の建て替え工事が本格化していた頃の写真。〈平成11年10月8日〉
























的場の上部壁は矢止めを兼ねていた。

矢道の草は、満遍なく敷き詰められるように手入れをしていた。

部員の多い年は、この狭い道場に30人前後が練習をしていた。

当時、矢数稽古を減らさないようにと、いろいろな工夫を試みた思い出が浮かんでくる。














「44期生」卒業式の日
旧弓道場での最後の『卒業記念射会』終了後
取り壊される前に、皆で記念写真を「パチリ」
〈平成12年3月1日〉
















「44期生」卒業式の日
建設中の新弓道場に上がって、保護者の方と一緒に記念撮影。 
「44期生」は、新弓道場で弓を引くことなく卒業していった。
〈平成12年3月1日〉
























平成12年(2000)5月 新道場 『崇徳至誠館』 落成




『至誠、天に通ず』

「誠」を尽くせば、その心は「天」に通じ、何事をも成し遂げることができる。







「天」に、我々の「誠」が届くようにと、

本校で最も「天」に近い新本館の7階にあたる「屋上」に建設。

高校の弓道場としては、日本一の高さを誇る。


安土は2トン、矢道にも砂利を2トン敷き詰める。

地上からクレーン車で安土と砂利の計4トンを屋上に搬入する。

旧弓道場は3人立ちであったが、新弓道場は5人立ちに広がる。












新道場を設計するにあたり(校舎の屋上ということもあり)、最も気を使ったのは、

矢止めである。

上に抜ける矢を止めるために、道場から庇を的場側に3メートル取り付け、

その庇の先端部(梁)に50センチの矢止めを設ける。

この3メートルもある庇は、道場内に雨が降り込むのを防いでくれる役目を、兼ね備えた。

庇によって道場内が暗くならないよう、照明は一般の2倍程、取り付ける。

左右に抜ける矢に対しては、3メートル近い高さのフェンスを設ける。

このフェンスの外観は、建物(校舎)の屋根としてデザインされた。

次に矢道をどうするか。人工芝も考えたが、維持費がかかるので、

枯山水風の矢道をイメージして、砂利を敷き詰めた。

部員たちは、時間のある時には、熊手で矢道に川を描く。


昭和30年に弓道部を立ち上げられた本田先生が、この新道場を御覧になったら、

どんなに驚かれたことか。

私は、一度もお会いすることはなかったが、

時を超えて、本田先生の喜ばれている姿が眼に浮かんでくる。


笠 岡 博 範












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